「『シン・ゴジラ』を観て笑える神経が理解できない」という価値観を押し付ける神経が理解できない

www.goodbyebluethursday.com

「『シン・ゴジラ』を観て笑える神経が理解できない」 と題するブログを見かけた。
著者の方はどの様な方か存じ上げないが、気になったのでこの記事を書いた。

なお、この記事中では特にネタバレは無いが、元記事では

(『シン・ゴジラ』未鑑賞の方は、鑑賞後の閲覧をオススメします)

との事なので、ご注意頂きたい。

『シン・ゴジラ』は娯楽映画以外の何物でも無い

僕は何も下調べもせず、比較的先入観を持たずに『シン・ゴジラ』を見てきた。
率直に言って面白かった。
見た後にあれこれネットを調べて気付かなかったお遊びの部分を知った。
再確認したいとも思うし、もう一度見たいと思っている。
僕は映画館で2回見たいと思った事はあまりない。
その程度には面白かった。

ゴジラが東京を破壊する映画(この程度はネタバレではなかろう)なので、人が死ぬし、被災するシーンは当然出てくる。
被災したシーンが過去に日本で起きた悲惨な現実を想起させる事も、おそらく意図した上で描かれている。
この点に関して、元記事ではこの様に書かれているので引用する。

この映画において、私たちはゴジラの襲来をはっきりとした現実的なものとして捉えなければならない。『シン・ゴジラ』をただの娯楽映画だとしか捉えられない人は圧倒的に想像力が欠けている。

(太字は元記事のママ)

何をもって「想像力が欠けている」と断定するのか?

悲惨な現実も思い起こせないバカだと言いたいのか?
この映画には重大なテーマが隠されていて、そのテーマを考えさせる「社会的な映画作品」であって、ただの娯楽映画としか思わない知性の低いものは軽蔑すべきとでも言いたいのか?

制作者の意図は知らない。配給会社が何を考えてるのかも聞いた事もない。
しかし、この映画を「娯楽映画ですか?」と問われればそうですと答えるだろう。

僕は単純に映画を楽しみに行ったのだし、実際に面白く感じた。
ネットで言われている様に、ゴジラが何のメタファーであって、何を描いているのかも鑑賞中に十分に理解した。
それでも、映画の全編で、笑うなど不謹慎と言われる様な映画では無い。
陰鬱な気分にならなければバカと言われる様なものであれば僕は絶対に1,800円も払わない。
『シン・ゴジラ』は娯楽映画以外の何物でもない。
勝手な価値観を押し付けないで頂きたい。

では、



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(小学生にプログラミング必修)政策に絶対反対! だったが分からなくなってきた

安倍首相の表明した、小学生にプログラミング教育を必修とする方針には絶対反対だった。

www.asahi.com

しかし、全世界的に活動している「Hour of Code」という活動を知って分からなくなってきた。

「Hour of Code」について

本日2016年5月5日(子供の日)小学生向けのプログラミングイベントが開催されたらしい。

ict-enews.net

「Hour Of Code」という子供向けコンピューターサイエンス教育の為のオンラインソフト及び普及活動がある様だ。
公式ページより引用する。

Hour of Codeとは何ですか?

Hour of Codeはアメリカで2013年から始まった、子どもたちにコンピュータサイエンス教育を普及させようという運動です。コンピュータサイエンスの基礎を学べる1時間のチュートリアルが準備されており、この教材を使って誰もがイベントやワークショップで子供達に教えたり、子供達が自習したりできるようになっています.

公式ページよりチュートリアルを読み、オンライン上でソフトを試してみた。
なるほど、これなら小学生が自分から進んで学習を進めていくかもしれない。

小学生の授業に必修とする事に僕が反対する最大の理由、無理に押し付けても苦痛を感じるだけで身につかないという事はかなり少なくなるかもしれない。

それに、多く指摘されている問題「誰が教えるのか」も解決できる。
これなら専門の教師はいらない。
ソフトの扱い方さえ子供に教えれば後は自分で勝手に進められる可能性が高い。
ハードウエアもPCかタブレットで良く、ペアプログラミングの手法に従えば、2人に1台で良い。

しかし、これで誰もがコンピューターサイエンスの基礎を習得できるかと言えば、そんな事は幻想だ。

僕には小学5年生の娘がいるので、これを試させてみた。
娘の学力は平均的だ言って良いと思う。塾での成績は大雑把に言って、国語は平均より上、算数は平均以下だ。
その娘がこのソフトを進めているのを見ると、ある課題を進める方法が、算数の問題を解く時の方法と同じだ。

論理的に考えていない。

感覚的にこれではないかというものをとりあえずやってみて、違えば別のものを次々に試してみる。
答えが合えば満足する。
何度でも試してみる事ができるこのソフトでは「正解」にたどり着く事はできるが、考えていないので、
なぜその方法が正解か説明できない。

楽しいか?と聞いてみると、「普通」という答えだったので、少なくとも苦痛ではないらしい。
小学生全員に必修としても、ゲームみたいなこのソフトの実習を嫌がる子供はあまりいないだろう。
これを使うなら「必修」も可能だろう。
しかし、これで誰もがプログラミングの基礎的な能力が身につくかと言えばそんな事はあり得ない。
プログラミングの基礎が身につくかどうかは論理的な考え方ができる子供かどうかによる、としか言えない。

小学生に必修とする事の是非

必修とする事によって、可能性のある子供に学ぶ機会が得られるという意図は理解出来る。
コンピューターサイエンスに強い子供と、その子供が成長して最先端の技術力を持つエンジニアになるという事が日本に少ないというのは事実であろう。
はっきり言って子供へのコンピューター技術の教育は多くの外国に遅れを取っていると言って良い。

しかし、進んでいる国々がいずれも、子供全員にコンピューターを教えている訳ではないだろう。
「全ての子供が同じ教育を受けなければならない」というコンセンサスはないはずだ。

過去、日本では義務教育が非常にうまく機能した。
高度経済成長を実現した原因の一つに、若年層の均一な学力の高さがあった事に間違いはない。
しかし、今、全ての子供が同じ様に、あれもこれもソコソコ出来る必要はない。
いや、むしろ一部の天才を多く発掘する事の方が重要ではないか。

おかしな話だが、日本では子供の学力に差がつく事を悪く言う親が多い。
必修の授業ならば成績を付ける必要がある、そうなれば授業は出来の悪い子供に合わせざるを得なくなる。
国策として、将来競争力のある人材を育成する土台とするなら、選択制として、向いてない子供の親があたかも「自分で選択しなかった」とメンツが立つような工夫をして、一部の出来る子供にだけ授業を行うべきである。

では、


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宮崎政久議員「沖縄県民が先住民族だと思っている人はいない」発言を勝手に解説する

www.sankei.com

国連の人種差別撤廃委員会が沖縄の住民を「先住民族」と承認するよう求めた見解に対し、木原誠二外務副大臣は「事実上の撤回、修正をするよう働きかけたい」と述べ、政府として対応する考えを示した。 これは自民党の宮崎政久氏(比例九州)の質問に答えたものだが、宮崎議員の質問の中で、
「(日本人に)沖縄県民が先住民族だと思っている人はいない。誠に失礼な話だ。民族分断工作と言ってもよい。放置しないでほしい」
と述べた。

はてなブックマークでは、このニュースに関して、沖縄県民は先住民族とみるのは当たり前だとして、宮崎議員及び自民党を叩く流れに乗るコメントが大半になっている。

しかしこれは「先住民族」の定義に、国連と多数の日本人の感覚が大きくズレている事による偏った反応と考えられる。

国連の「先住民族」の定義と普通の日本人の感覚とのズレ

www.unic.or.jp

国連の「先住民族」についての説明を引用する。

先住民族は世界のもっとも不利な立場に置かれているグループの1つを構成する。国連はこれまでにもましてこの問題を取り上げるようになった。先住民族はまた「最初の住民」、部族民、アボリジニー、オートクトンとも呼ばれる。現在少なくとも5,000の先住民族が存在し、住民の数は3億7,000万人を数え、5大陸の70カ国以上の国々に住んでいる。多くの先住民族は政策決定プロセスから除外され、ぎりぎりの生活を強いられ、搾取され、社会に強制的に同化させられてきた。また自分の権利を主張すると弾圧、拷問、殺害の対象となった。彼らは迫害を恐れてしばしば難民となり、時には自己のアイデンティティを隠し、言語や伝統的な慣習を捨てなければならない。

(太字は僕がした)

沖縄県には知事がいて、その知事は沖縄県民の選挙によって選ばれる。
国政についても(一票の格差の問題はあるが)沖縄県民が不当に差別されている事はない。
「政策決定プロセスから除外」されているとは言えない。

また、「自分の権利を主張すると弾圧、拷問、殺害の対象になる」事もない。
日本では政府を批判しても逮捕される事も、処刑される事もない。
日本人の難民はいないし、言語や伝統的な慣習を捨てる様に強要される事もない。

沖縄には基地が集中しており、負担が集中している事は確かだ。
日本人全体でこの負担を軽減する努力は続けないといけない。

しかし、この事をもって国連の言う「先住民族」への迫害が行われているとはとても言えない。
アメリカ大陸でネイティブアメリカンがその土地を追われた歴史や、中国のチベットやウイグル人自治区への弾圧と同列に扱ってもらっては困る。

この様に国連の「先住民族」の定義は普通の日本人の感覚と大きくかけ離れている。
国連の「先住民族」の定義では、「(日本人に)沖縄県民が先住民族と思う人がいない」という発言に不自然な点は感じられない。

<参考>
一票の格差は47都道府県中で沖縄県は25位(20才以上人口100万人あたりで衆議院小選挙区3.71議席)
1位(最も一票の価値が低い)東京は100万人あたり2.28議席

2013年分、ソースは以下
衆議院小選挙区議席数(一票の格差)【総数順】

余談であるが、現在政府の公式見解として日本には先住民族はアイヌ民族以外に存在しない事になっている。
2008年に衆参両院で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を採択しており、これを根拠にアイヌ民族のみが先住民族としている。
しかし、この採択は問題がない訳ではない。
今回は沖縄の話なのでこれ以上書かないが、機会があればまたブログに書こうと思う。

国連自由権規約委員会が日本政府に求めている法改正について

国連自由権規約委員会が求めているものについて、日弁連がまとめたパンフレット(pdfで32ページ)が以下のものである。

[自由権規約委員会は日本政府にどのような改善を求めているのか] http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/kokusai/humanrights_library/treaty/data/liberty_rep6_pam.pdf

先住民族に関する部分を引用する。(22ページ目)

3 先住民族に関する委員会の勧告について(総括所見26項)

今回の委員会の総括所見においては,アイヌ民族を先住民族として認めたことを歓迎する一方で,委員会は,琉球民族についてもアイヌ民族と同様に先住民族と認めること,アイヌ民族と琉球民族に対し,その伝統的土地と自然資源への権利の保障,アイヌ民族や琉球民族に影響を与える施策についての情報提供及び意思決定手続きの関与を求めるとともに,その子どもたちが独自の言語で教育を受けることを促進するよう,法改正を行うことを求めました。

「アイヌ民族と琉球民族に対し、その伝統的土地と自然資源への権利の保障」とはどういう意味か?

なんらかの方法で「琉球民族」(沖縄県民とイコールではない)を認定し、その認定された人たちに特定の土地とその自然資源を占有する事を認める法改正をせよと言っている。
新たな利権を生み出して、誰かにそれを認めよと言っているに等しい。

宮崎議員の言う「民族分断」とはこの事だ。

現在の沖縄県に住む人たちは、その全てが琉球王国に住んでいた人の子孫とは限らないし、他の地域の出身者との結婚も多数ある。
言語・慣習の点で琉球と本土が完全に分離する事などないのだ。

それでもなお、誰が「琉球民族」かを特定し、土地・自然資源を日本国から分けよ、というのがこの勧告の趣旨であって、もしそれが沖縄県民の総意であるなら話は別だが、そうでないなら、
政府は国連自由規約委員会に、この勧告の「撤回を働きかけて」くれないと日本人として大変困るのである。

では、

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理系でこれから大丈夫か?

今日、週刊誌「東洋経済」のサイトで下記の記事がアップされた。

toyokeizai.net

「理系社員 サバイバル白書」と題した特集記事の宣伝で、記事の一部分、旧三洋電機が中国ハイアールに買収されてから、元から三洋にいた従業員がどんどんリストラされている現状を紹介している。
本誌を購入し読んでみたが、一言で言うと、これまで技術者は自分の専門に打ち込んでいればリストラと無縁であったが、今ではどこもかしこもリストラの嵐で、技術者も例外ではない。という事が書かれてある。

この特集では、残念ながらではどうすれば良いという解はない。
(念のために言うと、他の記事では、理系出身の上場企業社長のインタビューとか、ベンチャー企業を選んだ若者などの記事もありリストラ一辺倒ではない)

そもそも今まで理系は安泰であったのか

バブル崩壊から既に20年以上景気低迷が続いているので文系出身者(=ほぼ全て営業職)の生み出す経済的価値が相対的に低下し、比較的に理系出身者(技術者)の方が、最近では雇用面で安定しており、年収においても高い状態であるといっても良いだろう。
しかし、これは最近の事であって、昔はそうではなかったといったら信じるだろうか。

僕はバブル絶頂期に大学生だったが、当時は文系の方が年収は高い事が常識だった。当時、最も偏差値の高い学生は東大法学部->大蔵省、ちょっと落ちてその他官僚へ、次に総合商社、銀行・生損保・証券、マスコミと人気企業ランキングは続いたと記憶する。
総合電機メーカーも人気はあったが、松下電器・ソニーであっても年収では総合商社・金融に大差をつけられていた時代であった。

東大でないと話にならない国家公務員一種は別として、バブル期に遊び呆けていた文系大学生が人気企業に就職するのに必要な能力はただ一つ、「コミュニケーション能力」であった。
就職活動の面接では誰も彼もが「自分はサークルでこれだけたくさんの人をまとめた」アピールばかりだった。
あまりにも能天気な時代であったが、このアピールは実は理にかなっている。
文系出身者のほぼ全ての仕事は広い意味での営業であり、営業に最も必要な能力はコミュニケーション能力である事に疑いはないからだ。

それに対して理系の学生はどうであったか、
人付き合いが得意でなく、あまりに能天気な文系学生についていけない勉強好きは理系を選ぶより他無かった。
理系を選ぶ他無かったが、居心地は良かった人たちはたくさんいた。
人気ブロガー・藤沢数希氏( Kazuki Fujisawa (@kazu_fujisawa) | Twitter

)の言葉を借りれば、次のツイートの通りである。

本質的に理系の人たちは自分の好きな事だけに没頭しておけば良かったし、勉強ばかりしてた(研究室でまじめにしないと卒業もできない)ので、景気低迷で人が余ってきた文系出身者をよそに、理系の人たちの企業の需要は相対的に向上してきた。
それが近年の理系有利の構造であった。

では今後理系で大丈夫か?

今までは自分の専門分野に特化していればそれで良かったし、それを求められていた。
しかし、東洋経済の特集記事のテーマの様に、今後は陳腐化した技術しか持っていない技術者は不要なのである。

「社内にあなたの仕事はないので、社外で探してください」

と言われないとは限らない。
ではどうしたら良いか?

答えは書かれてない

しかし、ヒントはある。
東洋経済本誌のこの特集の次のページにこう書かれてある。

ダメだと感じたら外の世界で勝負する

詳しくは東洋経済を買って読んでください。

(僕は東洋経済新聞社から1円ももらってません)

では、

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高学歴は使えない

全ての学歴の高い人に当てはまる話ではありません。どちらかというとミスマッチといった方が良い話です。

僕の勤務先は外資系のメーカーの日本法人で、日本の従業員は100名程度、本社は海外で、世界シェアはトップクラスの会社だ。
しょっちゅう中途採用を募集していて、どんどん人が辞める入れ替わりの激しいところである。はっきりいってあまり行儀のいい会社とはいえない。

しかし、世界でトップクラスのグループの日本法人なので資金は潤沢で、立派なオフィスビルで贅沢にフロアを占有している。
そんなところなので、時々間違えて国立大学卒とか、大学院修了(修士)とか高学歴の人が入社してくる。

しかしそんな高学歴の人たちはみんないなくなった。
はっきりいって使えないのである。

「使えない」には2通りの意味がある。

  • 使えない 1
    <能力が高すぎて、その能力を発揮させられるマネジメント能力も仕事の機会もこの会社に無い> という意味 本来の意味で「役不足」の場合だが、僕の経験上そんな人がいた記憶はない。

  • 使えない 2 <その人に対する評価が、期待した働きができない人> の意味 ウチにかつていた高学歴者はみんなこれだ。

例えば以前、新卒で東京の有名私立大学卒が入社してきた事がある。
私立大学ではトップクラスだ。
どうもウチが「外資系」というだけで、バリバリ英語を使って、たまには海外出張もあって、カッコイイ会社と勝手に思ってた様だ。
新卒なので、全く0から仕事を教えるが、初めから舐めてかかっている事がバレバレだ。
半年ほどいたと思うが、仕事を覚えようとする態度は全く見せず、自分が望んでいるキャリア形成が見込めないとかなんとか言って辞めた。
同期入社で残っている新人に聞くと、ホンネは(営業活動で訪問する工場内の)「臭いが嫌い」だったそうだ。

彼は新卒入社で半年ほど、営業に出始めて数ヶ月だったが、1個も商品を売らず退職した。

また、他にも、理系で大学院修了(修士)の新卒もいた。
ウチの会社は技術部もあるが、基本的には営業のバックアップとして数人いるだけで、全社員の7割程度は営業である。
彼も営業として、地方営業所に配属された。
先ほどの有名私大卒とは違い、大学院まで出て勉強は随分していたので当初は客先で随分と頑張ってた様だ。
だが、そのうち、客先からのクレームが続く様になった。
本人の素質かどうか分からないが、客と話が通じない。客には大企業もあるが、鉄工所のオヤジもいる。
どうも、営業に行ってるのに、客の言う事を間違ってるとか言い出して客を怒らせるらしい。
彼も1年程度で退職した。

その他にも中途採用で高学歴な人が何人かいたが、いずれも数年も経たずに辞めていった。

高学歴には高学歴が必要な職場があろうが、僕の勤務先では邪魔だった

僕の勤務先は相当ブラックと言ってよい。成果のでない営業に対する詰め方は相当キツイ方だ。
立派なオフィスビルと広々とした部屋の見た目とは裏腹に、社風はワンマン社長のブラック企業そのものだ。
そんなところに、立派な学歴だけをもった中途半端な高学歴者が間違えて入社しても、変に高いプライドが社内を生きるのを邪魔するだけだ。
学歴に関係なく、本当に優秀な学生や社会人は間違ってもウチには来ないが、高学歴のくせにまともに勉強もしてこなかった変なのだけが、たまにウチにきて、例外なく文句を言いながら辞めていく。
学歴に飛びついて採用するウチの上もどうかと思うが、立派な大学・大学院を出て、それなりの企業に(有名企業が必ずしも良いとは言わないが)就職できてない状態で、自分には足りない部分があると自覚しないといけない人たちもたくさんいると思うのである。

では、

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「若い時の苦労は買ってもせよ」ということわざの意味を解説しよう

「若い時の苦労は買ってもせよ」ということわざを聞いた事があるだろう。
辞書的な意味では、若い時の苦労はその体験が将来役に立つから、自分から買って出ても苦労せよという様に説明される。

しかし、実際就職活動などで苦労している若い人たちにとっては、その様な言葉は社会問題の解決を放棄した年寄りの言い訳にしか聞こえないだろう。
苦労などしないで済むのであればしないに越した事はない。

このことわざの本当の意味を解説しよう。

このことわざは経験の蓄積の差が人の成長に大きく影響するという事を言っている。
人は年をとれば、あらゆる能力が衰えてくる。
細かい字は読めなくなる、耳が遠くなる、体力は衰える、徹夜続きなどもっての他だ。仕事の成果は若い人に勝てない様に思える。
実際、若い人と同じ仕事をしてて体力が衰える分成果が低くなる人もいる。
そうなれば年寄りは早く引退しろと言われるばかりだろう。

しかし一方で、責任ある立場に立ち、人をマネージメントする事で自分が動かなくても大きな業績を上げる人もいる。
マネージャークラスで活躍する人はうまく人を動かして、体力勝負をする様な事はない。

この差はどこから出てくるのか?

仕事というのは予期せぬ事の連続だ。
若いうちは、「そんなの聞いてないよ」という事ばかりだ。
上司に「聞いてない」といっても、いいから黙ってやれと言われるだけだろう。
予期せぬ事のために成果が上がらない、時間がかかるといった事は多々あるだろうが、そのせいで評価が大幅に下がったりはしない。

ところが、これが40代・50代の人がことあるごとに「そんなの聞いてない」と言ったとしたらどうだろう。
上司に言えば、もうそれ以上出世は見込めないし、取引先に言えば徐々に仕事を失うだろう。

仕事は予期せぬ事の連続だ。
しかし、何もかも違った事ばかりしている訳ではない。
同じ様な仕事のなかでも様々な変化があり、今までに経験した事のない事でもそれが出現するまでに様々な予兆があるはずだ。

例えば、納入した商品の仕様が違うなどとクレームがあったとする。
今までと同じ様に打ち合わせした通りなのに、違うというのは納得いかないと思うかもしれない。
ところが、この様な場合でも大抵、打ち合わせ時に客先は何か違った事を言っていて、その違いを見落としている事が原因である場合が多い。
経験が少なければ、小さな違いが後に大きな影響を及ぼす事が想像できない。
その結果大きなミスにつながるのだが、幸い、若いうちは上司が助けてくれるので、せいぜい説教されて「いい経験」で済む。

これが年をとってから同じミスをする訳にはいかない。
同じ事をやっていれば命取りだ。
責任ある立場に立てば、自分のミスを謝ってくれる上司はいない。

その時の為に、若い時に苦労を買ってでもするのである。

仕事は予期せぬ事の連続だ。
しかし、全て予期せぬ事ではない。
経験から次に何が起きるか予想はできるのである。
また、小さな変化から大きな変化が予想できなければならない。
その為に経験を蓄積しておく事が重要だという事が、このことわざの本意なのである。

では、

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ダレノガレ明美さん、批判に負けず発信を続けるって宣言、偉いと思う

熊本地震の発生後すぐから被災者への支援に関する情報をリツイートし続けているダレノガレ明美さん( @The_Darenogare ) が一部の人から「指で操作するだけ」と批判を受けたが、批判に負けず情報の拡散を続けて行くと宣言した事は偉いと思う。

今回の地震に限らず、大きな災害の発生時には、極度に自粛を求めたり、ささいな事に不謹慎だと批判する人が出てくる。
国民の大多数が求めている事では無く、本当にごく一部の声の大きい人の批判である事が多く、中には平時でも有名人や大企業を攻撃ばかりする事が趣味の様な人ではないかと思われる場合もある。
この様な批判はまともに取り合う必要もないものが大半である。

しかし、この様な批判をする人たちは無視すれば無視したとSNSやブログで拡散し、少しでも炎上すれば同じ様な人種が集まって火に油を注がれてしまう場合もる。
有名人や企業はこれを怖れる。
小さな批判でもとりあえず火を消す様に対処する事ばかりだ。その為何かにつけて自粛する事ばかりになる。

その様な中で、はっきりと、下らない批判に屈しないと宣言したダレノガレ明美さんは立派だし、この行動によって、極度に自粛を余儀無くされる風潮が変わっていけば良いと思っている。

では、

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